2日目つづき
平戸瀬戸にあるオランダ商館のあとへ行ってみました。![]()
●オランダ商館
平戸ではオランダ商館とその周辺の復元事業に取り組んでいて、海岸には、1639年に築造された石造りの倉庫が復元されています。
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こちらは、オランダ人宣教師モンタヌスが、1669年に著した「東インド会遣日使節紀行」のなかの挿絵。当時はこんな様子だったのでしょうか。![]()
●オランダ埠頭
当時の埠頭の一部が残っています。
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●倉庫の壁
オランダ埠頭脇に「篠崎海産物店」の暖簾を掲げる店があります。司馬遼太郎の『街道をゆく 肥前の諸街道』で「篠原みやげもの店」と紹介されているのはこちらのお店かな。家屋の壁は、かつてのオランダ倉庫と民家の境界線の壁だそうです。
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割り石を積みあげて、シックイでつながれています。
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●オランダ井戸
篠原海産物店の道を隔てた向かいに、オランダ人たちが使用した大きな井戸が保存されています。
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●オランダ塀
ふと見上げるとオランダ塀が視界に入ります。
この塀は目隠しという日本的な優美なものではなく、防衛そのものが目的であったにちがいない。(司馬遼太郎『街道をゆく 肥前の諸街道』より)
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司馬遼太郎はオランダ商館の館長の公舎へ続くオランダ坂を上りながら、当時の日本人は「海上から艦載砲が飛んでくるなどということは想像もしない」だろうととし、「海面より低い地面に住み、海から土地を守るために何世紀も堤防を築きつづけてきた」オランダの歴史に思いを馳せています。![]()
オランダ坂と呼ばれるせまい石段をのぼった。石段はオランダ塀によって囲まれている。塀は目かくしよりも防壁を意識したかと思われるほど頑丈なもので、石塁を一重に築き、石と石の間をシックイで接着し、さらにはシックイでもって外面の化粧まで施されていた感じである。
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●オランダ商館長の公舎跡
階段を上っていくと右手にオランダ商館長の公舎跡があります。只今整備中。
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●日蘭親交記念碑
さらに坂を上がると左手に、見晴らしの良い広場があり、日本とオランダの交流と親交を記念する、日蘭親交記念碑が建っています。
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●崎方公園
平戸瀬戸を一望することができます。![]()
●フランシスコ・ザビエル記念碑
崎方公園の中ほどに、「フランシスコ・ザビエル記念碑広場」があります。
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公園の奥には、東洋でのキリスト教布教に生涯を捧げたポルトガル人宣教師フランシスコ・ザビエルの記念碑が建っています。
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ザビエルが来日した時の平戸の領主は、貿易に熱心だった松浦隆信(道可)。ポルトガル側が、貿易とキリスト教の布教を不離一体としていたため、平戸にポルトガル船をひきつけておくために、布教を許します。ザビエルはは僅か2年余りの日本での布教の間に、平戸へ3度も訪れています。平戸島や生月島では多くの住民が洗礼を受け、江戸時代の禁教令下でも隠れキリシタンとして信仰を受け継いでいきました。![]()
そこからさらに坂を上ったとこから、寺院に取り囲まれるように建つ平戸ザビエル教会の天主堂を臨むことができました。
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坂を下り、近くで見るとこんな感じ。![]()
平戸瀬戸にあるオランダ商館のあとへ行ってみました。

平戸ではオランダ商館とその周辺の復元事業に取り組んでいて、海岸には、1639年に築造された石造りの倉庫が復元されています。


当時の埠頭の一部が残っています。

オランダ埠頭脇に「篠崎海産物店」の暖簾を掲げる店があります。司馬遼太郎の『街道をゆく 肥前の諸街道』で「篠原みやげもの店」と紹介されているのはこちらのお店かな。家屋の壁は、かつてのオランダ倉庫と民家の境界線の壁だそうです。


篠原海産物店の道を隔てた向かいに、オランダ人たちが使用した大きな井戸が保存されています。


ふと見上げるとオランダ塀が視界に入ります。
この塀は目隠しという日本的な優美なものではなく、防衛そのものが目的であったにちがいない。(司馬遼太郎『街道をゆく 肥前の諸街道』より)



階段を上っていくと右手にオランダ商館長の公舎跡があります。只今整備中。


●日蘭親交記念碑
さらに坂を上がると左手に、見晴らしの良い広場があり、日本とオランダの交流と親交を記念する、日蘭親交記念碑が建っています。


平戸瀬戸を一望することができます。

崎方公園の中ほどに、「フランシスコ・ザビエル記念碑広場」があります。




