<2日目> つづき
船が行き交う平戸桟橋の隣の広場に、帆船の像があります。1550年、平戸と西洋の最初の出会いとなったポルトガル船の入港を記念するモニュメントです。![]()
日本にポルトガル船をひっぱってきたのは、王直であった。この意味で王直は、日本史上の重要な人物と言っていい。(司馬遼太郎著『街道をゆく 肥前の諸街道』より)
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王直は、五峰とも呼ばれた明の海賊の首魁で、海外交易に積極的だった戦国末期の平戸領主・松浦隆信(道可)の保護をうけ、平戸に外国の貿易船を手引きし、ポルトガル・スペイン・オランダ・イギリス・・・と平戸が西洋との貿易港となる最初の橋渡しをした人物です。![]()
鎌倉・室町時代から、江戸末期まで平戸島を治めた松浦氏は、司馬遼太郎の言葉を借りると、代々「武将というよりも貿易業者」で、戦国末期の当主だった道可については、「大名とはいえ、実質は海賊の親玉であり、貿易のためならどういうことでもするといったしたたかな実業家でもあった」と評しています。
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道可の王直に対する歓迎ぶりは、自らの居城として勝尾岳に構えていた白狐山城を王直に与え、自らは、のちのオランダ商館近くの高地に新たな城(古館城)を築いて、移り住んだほど。 王直は、この殊遇をよろこび、この地に唐様の壮大な邸宅を構え、その屋敷は、道可の隠居名の印山道可にちなんで印山寺屋敷と称されました。現在、跡地には、金光教平戸教会が建っています。
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王直の屋敷跡の下を通る小道は「王直の道」と名付けられ、ここからは、平戸瀬戸、復元されたオランダ商館、道可が移り住んだ城の跡地を望むことができます。王直がこの土地をもらった頃は、平戸城も、オランダ商館もなく、ここを訪れた際、司馬遼太郎は、王直の屋敷は、「海上から見る平戸の景色の中で重要な力点をなしていたにちがいない」とその印象を語っています。![]()
司馬遼太郎が「景観の中の城としてもっとも美しい」と称えた平戸城。城の下には、司馬が「八幡船を連想させる和船形の建物で自然に対して不釣合いにでっかく」「信じがたいほどののさばり方でのさばっている」と憎悪したコンクリートの施設が、今も鎮座しています。
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ポルトガル船のモニュメントがある港の広場から50m程、陸地に入った本通り沿いに、ポルトガル入港之地碑が建っています。当時はこのあたりまでが海岸線だったため、宮ノ前と呼ばれたこの界隈が最初の入港場所だったと言われています。
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それから11年、この付近で平戸の商人とポルトガル人との間で起きた大乱闘は、ポルトガル船長以下十数名の死傷者を出します。いわゆる宮ノ前事件後、ポルトガル貿易の舞台は平戸から佐世保へ移ります。
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平戸からポルトガル船は去りますが、1609年にオランダ商館が、1613年にはイギリス商館が開設されるなど、国際貿易港として、西洋とのつながりは、続きます。
船が行き交う平戸桟橋の隣の広場に、帆船の像があります。1550年、平戸と西洋の最初の出会いとなったポルトガル船の入港を記念するモニュメントです。












